荷役当直は四時間ごとの三交替だから、これをやり繰りすれば、連続したフリータイムを確保することができる。お互い、ゆっくり上陸することができるのだから、二等航海士にとっても魅力的な話のはずだった。その分、長い荷役当直を覚悟しなければならないのだが、そんなことを言っていては何もできはしない。苦しいことは考えずにおくのが、一番の船乗り気質だった。
「セカンドオフィサー(二等航海士)それじゃ出掛けてきます」
場所は、イギリスのフェリックストウ。入港作業が終わり、荷役が軌道に乗ったのを見届けた私は、大急ぎで船を後にした。目指すはロンドン……。タクシーに飛び乗って、まずは鉄道の駅があるイプスウィッチヘ向かうのだ。
時刻は、既に午後三時を過ぎている。イプスウィッチから鉄道に乗り替えて、ロンドンに着いた時は、もう六時を回っていた。帰りの便から逆算すると、八時過ぎにはロンドンを離れなけらばならない。たった二時間のロンドン滞在、それが私に与えられたすべてだった。
「めぼしい観光名所を、いそいで回ってください。時間は二時間」
有名なロンドンタクシーに乗り込んだ私を、年輩の運転手が驚いたように振り返った。
「二日の間違いじゃないの?」
「いいや、二時間。十二時には、フェリックストウの船へ帰るんです」
「ほう、船乗りかい……。よしわかった」
事情を飲み込んだ運転手は、乱暴に車を発進させた。

バッキンガム宮殿、ビックベン、大英博物館、ピカデリーサーカス……、あとで地図を見てみると、よくもこれだけ回れたものだ、と感心するほど盛りだくさんなタクシーツアーだった。もっともピカデリーサーカスで土産物を買った以外は、一度も車から降りはしなかったが……。
船に帰って、その話をすると、イギリス人のノースシーパイロットは、葉巻をくゆらせながらニャニヤと笑った。
「若いころ、貨物船で横須賀へ行ったことがあるんだが、どうしても東京を見たくってね。電車で行ったんだが、東京にいられたのは全部で三時間……。タクシーに乗ったものの、道が混んでいてパレス(皇居)と銀座しか回れなかったよ」
なるほど、船乗りは、いつでも同じような苦労をしているものである。もっとも昔は停泊時間がもっと長く、港(岸壁)も街の近くにあったので、現在よりは上陸しやすかったに違いないが……。
ところで、海外旅行が身近なものになった昨今“海外へ行ける”という魅力は、船乗りの特権ではなくなってしまった。少しお金を貯めて、一週間の休みをとれば、だれでも“欧州諸国、空の旅”を楽しめるご時世である。もちろん、ロンドンで一晩を過ごすことだってできるのだ。
それに、輸入品が大量に出回るようになったので“舶来品”なる言葉にも、今では特別な響きはない。私が入社したころは、まだ洋モク(外国タバコ一が土産物として喜ばれたが、今では自動販売機で売っている。ウイスキーにしても、日本で安く手に入る品が少なくない。
今後優秀な後継者を確保するためにも、外航商船の世界は、新たな魅力を創造していく必要があるのではないだろうか。
(川崎汽船(株)一等航海士)
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